動揺を隠せないまま待機所での時間は過ぎていった。
アスマと紅が頻りに何か言っていた様だったが何一つこの耳には届かなかった。
スキ
誰かを好きになる事
恋
レンアイ
そんな事自分とは無縁なモノだと思っていた。
身体の付き合いはあっても心まで欲する事なんて、過去に一度も無かったから。
だが紅のあの一言で、そんな自分の何かが跡形も無く崩れ去ったのが分かる。
(あの人の事が…スキ)
確かに、良くも悪くも彼の存在は特別だった。
自分が何故嫌いな筈のイルカにあれ程執着したのか、これで説明がつく気がする。
自分以外の人間に笑顔を振り撒く姿を見るのが嫌で。
他の者と違う表情を向けられると、それがどんなモノでも優越感に似た喜びを覚えた。
今の関係をイルカに強要した切欠もそう。
彼の言った『義理』という言葉が気に入らなかったのだ。
嫌いな物を渡されたからじゃない。
彼の中の自分が、自分にとっての彼の様に特別なものでは無かったから―。
どんなに卑怯な手段を使ってでも彼の中の『特別』を手に入れたかった。
たとえソレが、負の感情であったとしても。
先程感じた原因不明の感情が何なのかだって、今ならハッキリと分かる。
簡単な事だ。
あの気持ちの答えは『嫉妬』。
夜9時
待機時間が終わりを告げる。
「ちょっとカカシ!!何処行くのよ?!」
後ろで紅が呼ぶ声が聞こえた。
振り返る余裕も無く、俺は受付所のドアを蹴り開けた。
********
イルカ達が居る筈の居酒屋へは行く気にはなれなかった。
彼の合コンが自分の知っているモノと同じならば、あれは乱交と変わらない。
万が一イルカが他の者と性を交わしている場を見てしまったなら、まともで居られる自信が無かった。
今夜彼が帰宅する可能性は低いかもしれない。
だがこのまま帰る気にもなれず、主の居ない家の前でじっと佇んでいた。
どのくらいそうしていただろう。
ふと微かな気配が此方へやって来るのに気付いた。
段々と近付いてくる気配と一緒に、蒸し暑い空気に乗って酒の匂いが混じる。
忍のクセにカツンカツンと音を立て、階段を上ってくる足音。
この時ばかりは鼻の利き過ぎる自分を呪いたくなった。
酒精と共にふんわりと甘く漂う、香水の香りを嗅いだ時には。
「ダメだよ。アンタは俺のモノだから」
湧き上がる嫉妬心。
そして彼に触れた者へ向けられた殺意。
許せない。
イルカは自分のモノなのに。
イルカに触れて良いのは自分だけなのに。
彼にしてみれば言い掛かりも良いところだろう。
散々酷い仕打ちをしてきたクセに今度は嫉妬心丸出しで責められて。
だけど自分以外の誰かがこの身体に触れたのかと思うと、目の前が怒りで真っ赤になる。
もがくイルカを押さえ付け、身体中に赤い痕を残した。
(……情交の匂いがしない…?)
あの残り香は引き剥がした服に付いていたのか。
イルカの身体からは僅かに汗の匂いがするだけでオンナの匂いは感じられない。
その事実に、眩暈がしそうな程安堵した。
(これはマジで…アンタの事が好きみたいだねぇ)
今まで彼にしてきた事を思えばこの自覚したての想いを受け入れて貰えるとは到底思えない。
にも関わらず、こんなに救われた気持ちになれるのはそれだけ独占欲が強いから。
知らなかった。
縛り付けておきたいと願う程、誰かを好きになる事があるのだなんて。
そんな情熱が、薄汚れ冷え切った筈の自分にも未だ残っていたのだなんて。
どうしたらいいのだろう。
どうしたら本当の意味で彼の『特別』になれる?
きっと彼は自分を憎んでいる。
いや、寧ろ憎んで欲しいとさえ思っていた。
それで彼の『特別』を得る事が出来ると、本気で思っていたのだから。
なんて歪んだ愛情表現だろう。
自分と彼の関係は多分、既に取り返しのつかない所まで来ているに違いない。
(それならいっそ…)
嫌われたままでもいい。
彼の『特別』であり続ける事が出来るなら、このまま。
気付いてしまった恋心は笑える程自分を臆病にさせる。
想いを告げる事も出来ず、彼を手放す事も出来なくて。
ただ溢れそうになる想いを込め、イルカに深く口吻けた。
絡めた舌に伝わる彼の唾液はやはりとても甘くて、イルカは砂糖で出来ているのではないかと馬鹿げた事さえ本気で考えてしまう。
「ああ…やっぱりアンタは甘いね。唇も唾液も…」
甘い唇に酔いながら、彼の喉に伝った唾液を舐め上げうっとりと囁く。
だがその途端、イルカの身体が強張ったかと思うと思い切り跳ね除けられ、彼は涙を流して怒鳴り始めた。
「俺がどんな気持ちで…ッ! 俺はっ!!」
突然の出来事に唖然としていた俺は、驚きの余り両の目を見開いた。
付き合いも殆ど無い中、態々『義理』と念押しされて手渡されたチョコレート。
何時からか抵抗を止め、自然と首に回された腕。
受付所や里の中で顔を合わせた際、時折見せる様になった切なげな眼差し。
そして今、激高しながら零れ落ちる涙とイルカの気持ち。
もしかして、イルカは―…
「なんだ、そうだったんだ…アハハハッ」
「なっ!!」
一方的な付き合いではあったけれど半年近く見続けてきた中で感じたイルカの変化と、今の独白を総合して導き出される答え。
自惚れかもしれない。
大きな間違いかもしれないけれど。
彼は自分の事を。
「ねえ知ってた?俺、アンタの事が好きなんだってさ。紅に言われるまで全っ然気付かなかったよ」
「えっ?!」
赤い顔を更に赤くさせ、濡羽色の瞳をまん丸にして固まっているイルカ。
ああ、間違いじゃない。
憎まれていると思っていたのに、彼も自分と同じ気持ちで想っていてくれた。
嬉しくて笑いが止まらなかった。
今まで彼にしてきた仕打ちも忘れて、傷が横切る鼻先にキスを繰り返す。
途切れ途切れに言葉を紡いでいたイルカが、固まったままポツリと呟いた。
「甘いモノは、嫌いなんじゃ…」
甘いモノ
確かに甘いモノは大嫌い。
だって口の中がベタベタするし、食べた後は喉が渇く。
でもイルカだけは特別なんだ。
だってイルカだから。
ああ、そうか。
きっとイルカの事が好きだから、甘くないモノでさえ甘く感じられるんだ。
「甘いもんは嫌いだけどアンタだけは特別。寧ろもっと欲しくなる」
甘くて可愛い、俺の大切な人
ねえ、アンタの全部が欲しいよ
こんな俺でも許してくれる?
「涙もスゴク甘いんだけどねぇ…アンタのミルクセイキはもーっと甘くて大スキだよ?」
耳元でそう囁くと、またイルカに跳ね飛ばされた。
赤い顔で怒り声を上げるイルカの唇を自分のそれで塞いで、暴れる身体を思いっきり抱き締めた。
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